メモを開いた。

道を歩いている。
見慣れた風景だ。
子供の頃から歩きなれた、家々が挟む細い石畳の坂道。
小走りに歩く。
見慣れた白い壁には、見慣れた灰色の染みがついている。
いつの頃だろう。あの染みが出来たのは。
ずいぶん小さな時のような気もするし、つい最近のような気もする。
見慣れた染みを目印に右に曲がる。

更に細くなった坂道は、広くなった肩幅には少し窮屈だ。
ここに住む人でなければ通らない細い坂道。
観光客などが迷い込めば、元の道に戻ることなど到底無理。
そんな細くて狭い坂道。
道を挟む家の壁は高く太陽の光が薄くにしか届かない。

心持ち斜めに身を縮め、先を急ぐ。
急いでいる足元には、薄く濁った空き瓶が2本。
思わず踏み転びそうになりながら、思い出す。
この家の主人のこと。
よく怒鳴り声が聴こえてきた。
そんな次の日は決まって空き瓶が2本。
最近はきこえなくなった怒鳴り声。

急ぎ進む狭い坂道が不意に広がる。
一瞬目が眩む。
太陽の光だ。
そして香る潮の匂い。
懐かしい匂い。
視界が広がり、海が広がる。
空は果てしない。

急ぐのを止め、一歩一歩上がる。
小さな頃から好きだった高台。
海を一望に見渡せる。
申し訳程度に作られた見慣れた柵。
柵まで上がる。
はるか遠くの海は少し濃い。
それに合わせて空も濃くなっている。
柵に腰掛け、振り返ると先ほどまで、迷い込んでいた町並みがある。
ほとんどの家が白い壁にオレンジの屋根。
その見慣れた美しさに、照れくさいながらも誇りを感じる。

手にはメモ。
薄く黄色く変色した古びたメモだ。
少し逡巡した後、メモを開いた。


職場まで1時間と少しかかる。
町から職場のある街まで、バスしかない。
ごとごと。
ごとごと。
石畳の道から、舗装さていない道へ。
来月には叔父さんの畑を手伝いに。
その次の月には友人の畑を手伝いに行かねばならない。
そんなことを考えていると、景色が変わる。
いつしか、道も舗装され、看板が目立ち始めた。
建物は高くなり、車の量が増え始めた。
何時までたってもこの変化には慣れない。
バスを降りると目前にはビル。
空が狭い。
窓ガラスに映る空は果たして空なのだろうか。

職場では当たり前の従業員。
よい時もあれば、悪い時もある。
オフィスは広く、人も多い。
何やらかにやらで時間は過ぎる。
昼休みに外へ出た。

いつまでも歩きなれない、ビルと人々が挟む細い道。
小走りに歩く。
何度も何度も確認して、目印の灰色の看板を見つける。
3ヶ月前だ。あの看板が出来たのは。
それまで青だったのに、つい最近灰色になった。
ころころ変わる看板を目印に右に曲がる。

更に細くなった雑踏は、窮屈な背広を更に窮屈にする。
毎日違う人がすれ違う狭い道。
毎日通る人でも間違えてしまうような狭い道。

そして間違えた。

立ち止まる。
雑踏は速度を上げて、立ち止まった人を置き去りにする。
左右を見渡すが、表情の無い顔がただ前を見据えて進むだけだ。
目印をさがす。
ようやく覚えた看板。
看板は覚えられたことを忘れていなくなっていた。

胸に不安が立ち込める。
この世の中に一人になった感覚。
走る。
走ってみると、雑踏は更に速度を上げて走る人を置き去りにする。
次の道を右に曲がる。
次は左。
更に左。
行けども行けども見たことの無い道と、見たことの無い顔があるだけだ。

瞬間。

急ぎ進む狭い雑踏が不意に広がる。
一瞬目が眩む。
立ち止まる。

足元に何か居る。
メモをくわえた黒い猫。
薄く黄色く変色した古びたメモだ。

ふと、メモに手を伸ばし受け取る。
黒猫はメモから口を離すと踵を返し、尻尾をたてて歩いていく。
ゆらゆらと悠然と。

手にはメモ。
薄く黄色く変色した古びたメモだ。

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終わった。。
さすがに疲労。
出張より帰宅。
眠い。。