青木新門『納棺夫日記』
この本は私の記憶がたしかであれば、映画『送り人』の原作であったのではないかと思う。
ストーリそのものを書く気はないが、知らない人もいると思うので、少しだけ触れておく。
仕方なくなった葬儀の仕事で、死体を棺に収めるうちに、その専門家のように言われるが、親族からも絶縁を申し渡され、妻からも汚らわしいと避けられ、自らを卑下していた作者。しかし、昔付き合ったことのあった女性の父親の葬儀において、納棺する際にその女性が作者の額から滴れ落ちる汗を涙をためながら拭いてくれ、その時、軽蔑や哀れみや同情など微塵もない、男と女の関係をも超えた、何かを感じ、納棺することを前向きにとらえ、死と向き合うことで、自分を卑下していた気持から解放される。
また、死に向き合うことが出来るまでの苦悩の道のりを、宗教書に救い求め、親鸞の『教行信証』に出会ったことで、死を受け入れた人がすべてのものが光輝いて見える、または臨死体験の話では、暗いトンネルを通り抜けたあと明るい光が見えたとかお花畑を見たという話が共通しているように、ひかりといのちの関連について解を得た話が書かれている。
送り人のイメージで読むとおそらく三分の一程度しか同じイメージにならないだろう。
でも、映画では、描き切れなかった、作者が本当にたどり着き、理解した世界観が読み取れる。
この本に、正岡子規の死の2日前まで書き続けた随筆集の言葉が記され
「悟りという事はいかなる場合にも平気で死○る事かと思って居たのは間違ひで、悟りという事はいかなる場合にも平気で生きて居る事であった」
悟るということは、死をあるがまま受け入れるのではなく、どんな状況にあっても生きることが出来ること。
自分は、例えば余命を宣告された場合に平静に残りの期間を生きられるんだろうか?とか、癌のような死亡する可能性が高い病をもし宣告された場合、どう生きれるか、はなはだ心もとない。
以外に普段冷静そうな人に限って、狼狽しうろたえるんじゃないかと思うし、逆に普段神経質で、精神的に弱そうな人が意外に冷静に受け止めるんではないかと思う。
昨年亡くなったApple社のステイーブ・ジョブズも言ってたのを思いだした。
「死はだれにも平等に必ずいつかは訪れる。だから、今日を悔いなく生きろ。」的な内容だったと思う。
彼はすい臓癌で倒れた。でも、彼は彼の言葉通り生きたのだと思う。
果たしてどのくらいの人が今日を、自らの最後の日であっても悔いが残らないように生きているのだろうか?
自分も今年は少しだけ生き方を見直してみたいと今頃年頭の計画のようなことを考え始めている。
コメント
いいね・コメント投稿・クリップはログインが必要です。
湘子さん、こんばんは。
最近、なぜか時間がなく、be amieへもなかなかIN出来ない感じです。
その代わり本を読んだり音楽聞いたりする時間は結構取れるようになってきています。
テレビがなくなって8ケ月位たちますが、テレビがあるときに時間ってどのようにねん出していたか、不思議です。
ところで、上の話ですが身近な人が癌を宣告されたんですが、本人があまりに冷静に受け止めているんですが、周りはそうはいかず、不思議な感じです。
自分でもその人がそこまで強い人だって思っていなかったので、人間の本性はぎりぎりにならないとわからないものだと痛感しています。
でも、いざ自分がそうなったら、もがいて、あがいてもいいと思ってます。
だって人間ですから(笑)