先日うちから はまっているblogがあり、その方のblogを拝見していたら~
『現象を見たいように見て、感じたいように感じています。
その思い込みを束ねて「人生」と呼びます。
人生とは個々による、創作ストーリーなのです。
人生を振り返って思うことは、仕事などの将来に不安を感じている時は、自分のことばかり考えている時であり、力強さを持つのは、人のために何かしたいと思った時です。
僕たちはいつも、安心や安定を求めていますが、実際には、何が起きても動じない心の強さを求めているのではないでしょうか。
その心の強さは、利他心、貢献、愛、といったものと一対だと思います。』
『自分の中の愛に繋がること、それが生きる極意だと知ったのは、ずいぶん後になってからです。
せっかく猛勉強して入った学校でしたが、もとより与えられる勉強には興味が持てず、読んでいたのは「禅とはなにか」とか「真理の探究」とかいう本ばかりでした。
内容は理解できないのですが、真理を知らなければ生きている意味がないという思いだけは消えませんでした。
社会の秩序は、薄っぺらな偽善に見えましたし、権威を振りかざす者たちには反感を持っていました。
そんな幻想に服従することなど考えらませんでした。
誰にでも「自分は特別だ」とか、「自分は人と違う」という感覚がありますが、僕は若いころから、そんな気持ちが人一倍強かったと思います。
特別意識というのは自我の一部で、それを考えれば自我が人一倍強かったということですが、同時に、どうしても人とは馴染めない自分がいたのも事実です。
人が面白がるものは、少しも面白くありません。
ずいぶん無理をして話を合わせました。
あのころ誰にも言えず、心の中に疼いていた思いがあります。
それは将来、この世にどんでん返しが起きて、何もかもが逆転してしまうというものです。
社会の仕組みや、価値観や、人の生き方や、何もかもが変わるという予感です。
当時から心の片隅に、真実の宇宙秩序(コスモス)や、根源意識の記憶が残っていたのだと思います。
時が来たとき、わずかながら自分なりの役目を担うことも感じていました。
それまでどう生きるか。
どうせ全部逆転してしまうのだから、社会の仕組みの中で生きる必要はありません。
面白おかしく、やりたいことをやって時を待とうと思いました。』
全てに共感を持ち、長文を書き写させて頂いたのですが カラー文字にした部分に より強く共感を持ちました
私は つい人を羨む気持ちを強く出しがちなのですが、祝福の想いを もっと持てるような人間になりたい と (出来ない自分に)ジレンマを感じることも 多々あります
そんな 嫉妬心 の大元は怖れです
そして 自分自身の幸せを 感謝出来ていない気持ちじゃないかと 自己分析しちゃったりして つまりは自分の事ばかり考えている、といいますか
言い過ぎ覚悟で もう一つ書き加えるとしたら 自信のなさ(自分を信じる力不足) ではないか、と感じています
人が幸せになったとしても (自分だけが)置いていかれるとか云う次元のものじゃないし、また自分も経験してきたものであったりもして
ち~っとも羨ましいと感じる必要がないはずだし、実際 ある一定の時期が過ぎたら 心配には及ばなかった、と感じられる事柄ばかりだった…のが 過去の通例、なのに
隣の芝は青く見える、と言いますか
隣の芝の 努力や苦労を讃えていく気持ちが 私には足らないな克服したいな と感じ 問題視しています
今後の課題として 向き合いたいです
決意表明の日記でした
kazuさん 『某宗教に』ですか?
私と同じかも(笑)
私の場合 尊敬する先輩の薦めで~ その手の本を読みあさりました[花]
でも どうしても違和感を感じ 拭えなかったので 距離を置きましたが
義兄嫁(元友人)や義兄は どっぷりはまってます
私も『宗教』としてではなく 真理の探求とか すきなんですよね