万葉集を詠みながら

昨晩寝る前に 万葉集を詠んでみた。まだまだ形式が整っていないので、実は目では追えるが、音を出すとなるとこれがずいぶん難しく、ほとんどばらばらでリズムがつかめない。



しかも日本の古い言葉、言葉のインパクトでしかとらえられず



情景とはほど遠い いわばフラッシュバックのようで  



すべてが 我流ということで



声に出さずば伝わってこない なにがしかを感じ取れたらいいかと



目的もなく 赴くままにしている。



今週来週と ほんとうにすき間の二週間。



大学図書館に行きたいのだが 



夏の暑さたっぷりの燃える秋の日差しに辟易して



仕事の時間までが避暑となっている。



そこに居ますが如き



そう振る舞いたいところなのである。習慣を崩してはいけない。



自分を高みに登らせるには



常に 最前線にあることを意識せねばならない。



PCなどの誘惑物をシャットアウトせねばならぬのだが



緩みに忍び寄ってくるのが そもそも誘惑であり



好事魔多し なのである。



物事は そこに居ますが如きなのであるが



人間は目に頼る 殊に現代人は頼り切っているので



見えないものでもあるんだよ



と、いうことばを何か金科玉条のようなものとさえなっている。



そもそもわかるものしか見えないものであり



人間はそういうものだと言えばそれで仕舞いなのだ。



「わかる」ということ自体 実は相当難しい問題であるから



わかったようでわからない抜けられない迷宮へと誘われる。



人間は幾重にも合わさった轍の中のに在るのだ。



「循環」という比較的流布している言葉にするとわからずとも感覚的にしっくりくる人もいるやもしれぬ。



何らかのかかわりの中に



自己があり



自己の生命をまっとうすることができる。



だから



人間というレベルで語ったときにも



自分であるために 他者がどうしても必要であるといえるのであるが、



関係性からくる煩わしさからの解放が『自由』という枠の中で作られた今の社会の中にあっては、豊かさは孤独を助長して



自己完結という不完全な檻の中に閉じ込められる結果を生んだ。



飛び込んできた万葉人の情感。



儚くもろい存在である人間が



ふとした「こと」にふれ



うつろいゆくものの心のあり方を 人の「ことのは」として語り残したものであろう。



残さねばならないもの



残したい



残したいと思えるほどの 激しい思いとはなんなのか?



そこまでは思いもつかぬまま



もうすっかり 時刻は正午を迎えようとしているので



動こうかな・・・・

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