最後まで読んでほしい。

たとえ人は失われることがあっても頑張れる。
ともに頑張って行こう!
そんな思いが込められている曲
と紹介された「希望」という曲。



この前、「奇跡の演奏 両腕のないピアニスト」と題して中国人の若い男性ピアニスト劉偉(リュウ・ウェイ)さんの話が放送されてたんだけど、観た人いる?

まぁ観た人も多分いると思うんだけど、俺はこれを観て凄く感動した。

観てなかった人のためにも知ってもらいたいので日記に書きます。

くだらないとかじゃなくて、凄く考えさせられるから出来たら見てほしい。

劉偉(リュウ・ウェイ)さん(23歳)は、
10歳のある日、友達と隠れんぼをして遊んでいたときに向上に入り込み、誤って高圧電線を掴んでしまい、
幸い命は取りとめたものの両腕を失うことになってしまいました。

食事も着替えも自分では何もできなくなったのを母親が
「自分がこの腕になろう」
と懸命に尽くしました。

自立心が芽生える年頃になると、
その現実に堪えられなくなって行きました。
食事をするが「いくら食べても腕は生えてこない」と吐き捨てるように母親にぶつける。


「僕なんか死んでいればよかったんだ・・・・」


息子の痛いほどの気持がよく分かる母親、
「親としてどうすれば良いのか」と悩む毎日。


ある日新聞を見た父親がある新聞記事を発見します。
そこには劉京生(リュウ・ジンシェン)さんという口と足を使い絵を描く中国で高名な芸術家の話が掲載されていたのです。

そして母親は劉京生さんの所へ偉人君を連れて行きました。
すると
「私も両腕を失った、だけど不自由なんかちっともしていないぞ!」
と劉さんは偉君に語り語りかけ、
偉君は劉さんの絵を描く自分を見ることになります。

「両腕を失くしてもみんなに尊敬され、立派に生きている人がいるんだ」

お母さんはそれを偉君に見せたかったのです。

偉さんはこう語ります。

母はぼくにこう言いました。「他人と違うことを気にしなくてもいい。あなたには、あなただけの人生がある。」と。

この出会いが劉偉君を変えました。

「僕には足がある」「何だってできるさ」

もともと劉偉君は負けず嫌いだったそうです。
食事も着替えも自分の足でやるように努力し始めます。
足は腕ほど自由には動かない大変なことですが、努力を重ねます。

決して諦めない。

そうすると半年後には血のにじむ努力で、誰の助けも借りずに自分ですっかりできるようになっていました。

出来る用になって行きました。

そして12歳のある日劉偉君は母親に「水泳をやる」と宣言します。

お母さんは劉偉君が普通に暮らしていければよいと考えていたようですが、劉偉君は母親を喜ばせたい一心で努力します。

劉偉君の思いは

「母が誇れる息子になりたい」

というその思いがありました。

毎日の猛練習、と両腕のないハンディーを克服するため体も鍛えます。

そして全国障がい者水泳選手権で2連覇するほどの実力の持ち主になり、北京パラリンピック代表候補にも選出されます。



・・・・・・しかし18歳になった



劉偉君に悪魔が忍び寄ってきます。

ある日偉の足に紫の斑点ができてきて痛みを訴え始めたのです。
それが段々腰まで広がってきました。

病名は「血管性紫斑病」、血管が異常をきたし関節痛などを起すもので運動を続けるとさらに悪化するというものでした。

 医師から伝えられる辛い宣告

・・・「水泳はもう諦めた方がいい」

・・・「この子の夢を奪わないで」

と賢明に訴える母親・・・


しかし現実は、


パラリンピック出場という夢も消えることになりました。

劉偉君は自分の運命を呪い、
その気持ちが痛いほどわかるお母さんは、
「神さまに問いかけました。どうしてあの子を辛い目にばかり合わせるのか。私がかわってあげたかった・・・」
とその当時を振り返ります。

積み上げたものがいっきに崩れる、

しかし、音楽・・・

自分が好きなもの、残っているのは音楽しかない。
サッカーもオリンピックの夢も消えた。
でも音楽はどうしても捨てることができない。
音楽を作り出す仕事、
音楽デイレクターになりたい。

自分が尊敬するデイレクターに申し込んだ。

しかし最低限ピアノがひけなければ、だめだと言われる。

その時母親はあることを決断します。

母親は一台のピアノを劉偉君に見せます。

母親が借金をして買ったもの。

劉偉君そしてお母さんは劉偉君にこう言います。

「母さんこれ・・・あなたに引いて欲しいの」(母親)

「何を言い出すんだ、足で弾くなんて無理だよ!」(劉偉君)

父親は無理に劉偉君「ピアノは足で弾ける楽器ではない」と弾かせるのは反対だったようです。

 そこには母の我が子への切実な想いがあったのです。

「親として偉にしてやれるのは、どんな難しいことでも目標を示すことだと思うの」(母親)

「でも・・・・」(父親)

「あの子なら出来る。私は信じています」(母親)

という夫婦の会話をこっそり聴いていた劉偉君は翌朝お母さんに「ピアノをやってみるよ」と話します。

そして血のにじむような努力が始まります。

本人が語ります。

「運動はダメでも音楽がある。僕が生きていける世界はきっとそこにもある。」とその時そう思えたのです。

そしてピアノを学ぶために音楽学校の門をたたきます。

しかし学校は一般の生徒しか受け入れないと、両腕のない劉偉君の入校を認めてくれませんでした。

そこに立ちはだかるのは「障がい者差別」でした。・・・・・・

学院長から、
君がピアノを弾くなんて絶対に不可能。
また君のような両手のない障害者が来てもらっては
登校の印象を汚すとまで言われたそうです。

その後彼は大きく変わる。

必ず弾けるようになってみせる。

弾けるようになり、あの学院長に入学させなかったことを
後悔させてやる、と。

しかし、その道はきわめてきびしい。
通常一般人が考えれば、誰しも
才能や努力を論ずる前に
足でピアノを弾くのは絶対に不可能と考えるもの。


体の固定をどうするのか、
足の指は、ピアノの鍵盤をたたくには太すぎるし、
手指のように開かない。
同時にキーを押さえる和音を弾くのはどうするのか。…etc
問題は山積。


彼がすばらしいのは、
誰が見ても困難、不可能と見えた状況から
逃げ出さなかったこと。

猛練習の末、なんとか弾けるようになり、
音楽デイレクターに連絡する。

が、デイレクターは厳しく言い渡す。
ただ弾くことができるだけでは、なんの意味もない、
人の心を打つように弾くことができなければ…。

ある日母親はふと、息子のピアノの音色が
変わってきたことに気づく…。

彼の失望の深さと
夢を捨てない、狂おしいほどの奮起、奮戦を目にすれば、
誰もが自分の抱え悩んでいる問題の小ささ、
努力の足りなさを思い知り、

同時に
彼の努力がただものでないことに思い至り、
静かに心打たれる。

そして息子の苦悩と葛藤に
心を痛めながらも
支持していく両親の姿に
こころが温まる。


「人生とは」の質問に彼はこう答えた。
「死んだように生きるか、死に物狂いで努力して光り輝くか、
この二つに一つしかない」

「自分のその強さはどこから来ているのですか?」の質問に彼はこう答えた。

「人生を悲しいと思えば悲しくなるし、楽しく生きようと思えば楽しくなる。それだけです。僕はいつも幸せです。」

そして最後に劉偉さんは次のように語りました。

いつも心に理想を持っていれば希望が湧いてきます。
苦しい時こそ希望を忘れないでください。





みんなどう思った?

俺は彼の気持というかそういうの凄くわかる。

やっぱり同じ障害者として、まぁ手がないのと耳が聞こえないのとでは違うのかもしれないけれど、でも、凄く辛くて、色々考えたことがある。

高校受験でも耳が聞こえないことで第一志望の高校を受験出来なかったこともあったし、パイロットっていう夢も消えた。

でも、彼が言ってたように「人生は悲しくしようと思えば悲しくなるし、楽しく生きようと思えば楽しくなる。」本当、正にそれなんだよね。

耳が聞こえないこと、日本語が話せなかったことで、本当に今まで色々あったけど、でも、自分がそれでも諦めずに頑張って、同志社に入れたことも、好きなことに没頭出来るのも、今の自分がいるのもきっと、周りの友人や家族のおかげなのかもしれない。

今、世界中で未だに戦争をしている国もあれば、同じ日本でも虐待やいじめや何らかの障害で学校に行けなくなっている、家の外にですら行けない子供が沢山いる中、自分は学校に行ける、友達がいる、やりたいことがある、それは本当、普通のことなのかもしれないけれど、凄いことなのかもしれない。
前に自分は一人で生きて来たって日記に書いたけど、でも、本当は沢山の友人や家族に凄く支えられてたのかもしれない。

そして、俺はこれを見て凄く考えさせられた。

自分何やってんだろって。

もし、ピアニストになれば?

って言われたら、俺は「いや、自分には無理だよ」ってやる前からそう言って諦めるだろう。

今までもそうだった。

何でもやる前から諦めてた。

ちょっとの努力もせずに、いつも、楽な道を選ぶ自分がいて、凄く努力して夢を叶えた人がいれば、嫉妬したりしてたかもしれない。

でも、それって変だよね。

努力した人が嫉妬するならまだしも、やる前から諦めてた人が、自分の可能性を捨てた人が、嫉妬するなんて。

そう思うと自然と背筋が正される。

ありがとう。

コメント



いえいえ、彼の方が凄いと思います、僕は。
でも、僕は将来、彼みたいな人になりたいなって思ってます。

そうやって、「耳が聞こえなくても出来るんだ!」っていうような人になりたいなって思ってます。

最初は難聴初のパイロットなんていいなって思ってましたが、でも、今の段階では難しいみたいです。

でも、勿論、パイロットになる夢は諦めてません。
いつか、医学がさらに発展し、またいつか聴力が回復したらパイロットの道に進む予定でいます。

そして、難聴初のパイロットになりたいなって思ってます。

まぁでも、今はパイロット以外にも漠然とスペインと日本の掛け橋になるような仕事が出来たらと思ってます。
それか、外国語を生かした仕事がしたいって思ってます。

将来はそう活躍したいですね。
沢山の障害者を勇気づけたいです。

それくらいです。

ちょっと語っちゃいました。

無敵艦隊スペイン 2011年09月23日

読んだよ、最後まで!

やっぱりカッコイイわ!無敵艦隊スペイン
(↑誰を誉めてんだか分かりづらいあせあせ(飛び散る汗)

可塑性、可能性でいっぱいだなぁ!
ひそかに応援しています

…いや私も頑張らねばな(=_=;)

2011年09月22日

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